Episode1; 創業72年、沖縄に根ざし、愛され続ける老舗ステーキハウス

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2025.03.11
沖縄県那覇市、ゆいレール旭橋駅から徒歩約6分の場所、高いビルに囲まれた路地にふと現れるレトロでまさに老舗店の雰囲気が漂う一軒のお店。
「ジャッキーステーキハウス」がここにあります。

アメリカンな看板とユーモアのある空席情報サイン。


店内の雰囲気も昔のアメリカ映画に出てくるようなレストランのようで、
だけどカニやウミガメの剥製があったり、芸能人のサインがたくさん貼られていたりと、
沖縄の食堂っぽい要素もあって・・・それもまた ”いい味” になっています。
店内の雰囲気も昔のアメリカ映画に出てくるようなレストランのようで、だけどカニやウミガメの剥製があったり、芸能人のサインがたくさん貼られていたりと、沖縄の食堂っぽい要素もあって・・・それもまた ”いい味” になっています。
1953年創業、今年で72年目を迎えたステーキハウスの老舗「ジャッキーステーキハウス」。
一体どんな人がどんなきっかけで作ったお店なのか。
現在お店を運営している創業者の孫、長田 就高(ながた なりたか)さんにお話を伺いました。
1953年創業、今年で72年目を迎えたステーキハウスの老舗「ジャッキーステーキハウス」。
一体どんな人がどんなきっかけで作ったお店なのか。
現在お店を運営している創業者の孫、長田 就高(ながた なりたか)さんにお話を伺いました。
戦後間もない頃にステーキハウスを創業されたきっかけを教えてください。
祖父は奄美出身で当時、奄美もアメリカ統治下にあり、英語が話せた祖父は米兵の通訳をするなど、米兵の方との距離が近かったようです。
戦後、これからの生活のために仕事をしようとした時、ニューヨークのレストランで働いていた経歴をもつ親戚に声をかけられ、米軍基地の多かった沖縄に渡り、米軍相手のレストランを営業することになりました。
それが前身の「ニューヨークレストラン」開業のきっかけです。
(右写真)創業者、長田忠彦さんのお写真が店内に飾られている。

現在の「ジャッキーステーキハウス」はもともと親戚が始めた「ニューヨークレストラン」の暖簾分け。当時は親戚がたくさん沖縄に呼ばれて暖簾分けで沖縄の米軍基地がある各地に「ニューヨークレストラン」があったみたいです。
(↑写真)創業者、長田忠彦さんのお写真が店内に飾られている。

現在の「ジャッキーステーキハウス」はもともと親戚が始めた「ニューヨークレストラン」の暖簾分け。当時は親戚がたくさん沖縄に呼ばれて暖簾分けで沖縄の米軍基地がある各地に「ニューヨークレストラン」があったみたいです。
今でも親戚が集まると『私たちもニューヨークレストランをやっていたのよー』と声をかけてもらいます。
今はみなさん引退されて「ニューヨークレストラン」という店舗はなくなりました。
今でも親戚が集まると『私たちもニューヨークレストランをやっていたのよー』と声をかけてもらいます。
今はみなさん引退されて「ニューヨークレストラン」という店舗はなくなりました。
いつ頃お店の名前が変わったのでしょうか?
祖父は嘉手納で「ニューヨークレストラン」を開業して、8年後の1961年に辻に移転した際に現在の店舗名である「ジャッキーステーキハウス」に名前を変えました。

移転した頃。お店の前をジュリ馬まつりの行列が通る。



といってもこの当時の写真を見ると看板には「ニューヨークステーキハウス」とあったり、「ジャッキーステーキハウス」とあったり、
「ながたや」とも書いてあったり・・・
色々看板があって、当時店舗名は迷走していたのかなーと思ったりしています笑 最終的にはお世話になった方のお名前を店舗名に決めたみたいです。

「ジャッキー」はお世話になった方のお名前?!
そうなんです。ジャッキーは愛称で、本名はジャクソンさん。
米軍犯罪捜査部の方のようで、祖父がどうお世話になったのか詳しくは分からないのですが、その方の愛称をとってお店の名前にしたそうです。

祖父は英語の読み書きが出来たということもあって、当時の米軍の中には話せても文字にすることが出来ない方もいて、“あのレストランに行けば手紙を代筆してくれるよ”との噂も広がったりして交流が広がったり、米軍関係者との親交は深かったようです。 お店で提供しているタコスは祖父がアメリカ人のご自宅でレシピを教えてもらってメニューにしていて、今でもそのレシピは変えずにご提供しています。

アメリカの家庭の味を引き継いだタコス



祖父は75歳頃まで現役で店舗運営をしていましたが、そのあとは私の母と叔母が中心となってお店を続けていました。
そして2001年には辻から現店舗である那覇西に移動してきました。
(→写真)長田忠彦さんの娘、2代目藤波睦子さん。
母も叔母も今は引退してはいますが、今でも母は毎朝来てお昼過ぎくらいまで手伝ってくれていますし、叔母も週4回来てお店を手伝ってくれています。
70歳過ぎていますが、まだまだ元気ですし、たまに祖父の代を知るお客様が訪ねてこられたりすると母や叔母と話が盛り上がって昔を懐かしんで過ごしてくれることもあって、そういう場面でも本当に助かっています。
(↑写真)長田忠彦さんの娘、2代目藤波睦子さん。
母も叔母も今は引退してはいますが、今でも母は毎朝来てお昼過ぎくらいまで手伝ってくれていますし、叔母も週4回来てお店を手伝ってくれています。
70歳過ぎていますが、まだまだ元気ですし、たまに祖父の代を知るお客様が訪ねてこられたりすると母や叔母と話が盛り上がって昔を懐かしんで過ごしてくれることもあって、そういう場面でも本当に助かっています。
就高さんはお店を継ぐ意思があったのでしょうか?
継ぎたいという思いは小さい頃からありました。
保育園が終わったらナイフとフォークを包む紙を折ったり、グラスを磨いたり、少し大きくなったらパン粉を削ったり、お肉を解凍したり、ハンバーグの材料を測って小分けにしたりとか・・・
中学、高校になると学業や部活でなかなか入れなかったですけど、夏休みとかお小遣い稼ぎにちょっと働かせてもらっていました。 大学は行った方がいいという母の教えもあって経営学を学ぶために東京の大学に。 卒業後は色々な飲食店で経験させてもらって10年後に沖縄に戻ってきました。
創業当時からほとんどメニューも変えずに営業されていますよね。
そうです。でも一部作り方が分からなくて当時のメニューからなくなってしまったものもあります。
スープやタコスソースなど調味料のレシピはメモであるのですが、メインメニューのレシピはなくてすべて口頭で受け継がれてきたみたいで。 だから母や叔母が作り方の分からない料理はメニューからなくなってしまいました。
分かる分は私の代でようやくレシピを残して誰でも作れるようにしていますが笑

叔母で3代目の伊波よし子さんと4代目長田就高さん



昔と変わらないメニューをこれからも作り続けていくのでしょうか?
創業当初の祖父の想いとしても、階級の高い米兵相手というより、あまりお金も持っていない一般的な米兵さんや地元の方向けにお店を始めたということもありますし、メニューを変えて高級なステーキ屋さんにシフトしていく事は今後も考えていないです。
昔の写真を見ても「うまい、早い、安い」と書いてある看板があったりしますし、お店のモットーだと思うのでそこは出来るだけ変えたくないなと思っています。多分来てくださるお客様もそんな事を望んでないと思いますし。
昔の写真を見ても「うまい、早い、安い」と書いてある看板があったりしますし、お店のモットーだと思うのでそこは出来るだけ変えたくないなと思っています。多分来てくださるお客様もそんな事を望んでないと思いますし。
老舗ステーキハウス「ジャッキーステーキハウス」は創業当時の先代の想いをしっかり受け継ぎ、これからも地元に根差し、変わらない味でお客様をお迎えします。
沖縄にお越しの際はぜひジャッキーのステーキ、食べてみてくださいね。
老舗ステーキハウス「ジャッキーステーキハウス」は創業当時の先代の想いをしっかり受け継ぎ、これからも地元に根差し、変わらない味でお客様をお迎えします。
沖縄にお越しの際はぜひジャッキーのステーキ、食べてみてくださいね。
ジャッキーステーキハウス 【Episode2】
こだわりの味を家庭でも楽しんでいただきたい
エピソード2では、「最近おじいちゃんに似てきたね」と言われる就高さんがコロナをきっかけに挑戦した通販・レトルト商品開発についてご紹介します。
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